勝手気まま。 -5ページ目

聞き間違いではない筈。

出勤途中の電車のなかで漏れ聞こえてきた、背後に居たカップルの会話。

「ねえこれさあ。Jのこどもでぇ、Kくんてゆーの、超かわいくない?」
「んー(←あきらかに聞いてなさげな男性の返事)」
「でえ、Kってね、ちっちゃいころ、家に火ぃつけて燃やしちゃったことあるんだよー、超かわいくない?」
「んー(←あからさまに聞いてなさげな男性の返事)」

……え?

旦那様に望むこと。

赤褌一丁で踊る男衆、の写真を見せてもらう(何故)。

とある経緯で見せてもらったソレはかなり衝撃的で、可笑しさを堪えられず。実はとある集団で代々行われているお祝いの芸目で、仲間内の結婚式で毎度披露されるのだとか。微笑ましいけれど見ているほうは多少気恥ずかしい、そんな感じ。もじもじ。

さて、知人友人の間では、この話の反応はまっぷたつ。『自分のときもやって欲しい!』という声と、『絶対やめて!』という声ですな。そんなわけで職場でも早速この話を披露。

先輩と自分の意見は、『むしろやって欲しい』で一致。じゃあそのとき、自分の横で自分の旦那さんはどういう反応をしますかね? 一緒に笑ってくれるのか、それとも眉をひそめるのか。これってその後の結婚生活にも影響しそうな、結構大きな問題な気がするけど……どうなんでしょ?

「でもやっぱりそこで一緒に笑ってくれるといいよねー」
先輩の発言に思わず力強くこっくり。まあ、実際のところ男性方は、自分の花嫁の知人友人がこんなお祝い芸をお披露目してくれたら、どういう反応をするのかが微妙なんだろうけど……。やっぱりあんまり良い顔はしてもらえないですかね? お酒の席での狼藉とかじゃないから、誰に迷惑かけてるわけじゃなし、笑ってくれるといいなあと思うけど。あ、式場の人はいやがるんだろうか。あらかじめ打ち合わせてれば許されるか……?

「笑いのツボが合うひとじゃないと、なかなか一生を共にする気にはならないよねー」
これも先輩の弁。たーしーかーにー! 自分は笑い上戸なので、かなり些細なことでよく笑うのだけれど、うん、確かに一緒に何でも面白がってくれるとちょっとうれしい。もちろん他にも望みたいことやお互いに期待することはいくつもあるんだろうけれど、確かに一緒に笑えるのって、やっぱりいいなあ。

そんなわけで、結婚予定などまったく無い上に、するつもりすら無いのだけれど、万一一生を過ごす相手ができたなら、っていう望みを書いてみたり。や、恋愛自体うまくできないんですけども。

生活内のアート。

先月末は、二度目のアーキラボ展(森美術館)へ。

年末に友人と行ってきたのだけれど、時期も時期、ヒトが多くて、目が悪い自分には人ごみの上から展示や模型、ビデオを見るだけでぐったりで、早々にあきらめモードに。そんなわけで二月末に早速今度は別な友人と、もう一度お出かけ。

ちっちゃな模型の数々。面白い試みの建築をいくつも試行錯誤しているビデオ。もともとメカっぽいものだとか、模型のジャンルが好きな自分にはたまらなく愛しくて、その複雑なつくりに感嘆しては、うきうきと観覧。なかにはしっかりメモしながら見て回っているヒトも多く、建築系のヒトかなあと思いながら、そんな人間観察もまた楽しかったり。

なかでも自分が一番興味を惹かれたのは、実際に建築されている建物の模型。印がついていてどれがそうかはすぐわかるようになっているのだけれど、実現したものとしないもの、それぞれを比べたり、実現したものの様子を写真やビデオで見るのは、なんだかものすごく圧倒的で、ちょっと感動。近代クラスのところで見たヴィトンのビルなんて、実際にヒルズを抜け出ると目の前に実物があるわけで、つい先刻見た模型と頭の中で比べては、ひとり感心。

芸術、って考えると難しい気がするけれど、『アート』っていうのはホント範囲が広くて、自分は建築の専門的なことは何一つわからないけれど、こうやって楽しい発見をいくつも出来るのはうれしい。今回の展示、個人的にはとっても面白くて、出来ればもう一度今月行けるといいんだけどなあ。やっぱり建物というのは【衣食住】の【住】なわけだし、身近なモノだから? 身近に転がってる『アート』をたくさん探してゆけば、生活はがきっと充実するんだろうなあ。幸せさがしみたい。ポリアンナ!

美術館や博物館は、ちょっと足を伸ばすのも気合が必要で、ちょっと大きなところに行こうとするとそれ以外何も無かったりするけれど、ヒルズは買い物やお茶も楽しめるし、個人的にかなり森美術館は大好き。来月のアジアン展示も今から気になるので予定に入れるつもり。あんまりオシャレ生活には縁の無い自分だけれど、こういう楽しみっていいなあ。やっぱり『空間(スペース)』って、人間にとってとってもとっても重要視されるし、心に与える影響も大きいのかも。人間誰しも、「(何処かに)帰りたい」願望が強い気がするし、これからも自分のかえる場所を探して、うろうろできればいいんだけど。基本がインドアなんで、なるべく一人でお出かけ、という時間を増やしていきたいところ。来月の目標は、まず森美術館の新展示かな……。

良い上司。

ヒトを励ますことのできる言葉を、ちゃんと口にできるひとはすごい、と改めて思った一日。

「全力でフォローしてやるから」

自分の進みたいところ、それから今の自分に出来ること、出来ていること。そのあたりがわからなくなって、どんどん混乱してぐるんぐるんになる自分をえいっと上司にぶつけてみたら、苦笑いされながら、がんばれ、って言葉をくれました。


自分はなんてだめなんだろう……という考えに囚われていたので、正直、ちょっとだけ救われたような気持ちにさえなってみたり。このままじゃただの甘えになるから、ちゃんとしないと。それにしても、フォローする、とは良く耳にする言葉ではあるけれど、【全力で】って付け加えられたことで、こう言ってもらったことに応えられるようにならないと、って強く思ったし、ありがたいことだなあ、と大感謝。

今の現場の上司は、たとえはったりだったとしても、周囲を安心させてくれるひとたちが多くて、それはとてもすごいことだと思う。動じないひとが上で構えていると思うだけで、安心して仕事に望める。それは甘えてる、ということじゃなくて、責任感のあり方を、ちゃんと自覚できるという点で。自分でできること、すべきこと、そこに集中して、いざとなったら一緒に考えてもらうことができるというのは、案外どこの職場でもありそうで、実はそんなに無い気がするんだけど、それはわたしの職場遍歴運がわるいだけ……?


以前居た現場の上司は、みんなとてもいいひとたちだったけれど、個人的に「いい上司」だとはあまり思えなくて、結構そのギャップがストレスになってたフシがある。不用意な発言や、曖昧な判断などに、何度もあとで泣かされて、身体にそのストレスが全部出た。親切で明るくて判断力もあり、プレゼン能力なんか優秀すぎるひとたちだったけれど、現場と理屈の区別が無くて、安心して自分の業務だけに集中したり、頼ったりしずらかったんだよなあ……。いいひとイコールいい上司、ではないんだなあと、当時しみじみ実感したものデス。

今居る現場の上司たちは、時折言葉遣いこそ乱暴だけれど、ちゃんと責任を明らかにして、曖昧なものも明確なものも、じゃあどうするかということを一緒に考えてくれて、下のひとたちを不安にさせることが少ない。それがすごく心強いし、それだけのことをしている上司たちに対して、自分も真剣にちゃんと向き合えるようでありたいと常に思う。

自分もこの先、年齢、経験を重ねればいつか、何かしらの責任ある仕事をどんどん任されることもあるかもしれないということを考えると、自分がその立場になったとき、いかにそういった【周囲を安心させられるだけの姿】を見せられるだろうか、と悩むけどね……。仕事の能力だけではなくて、そういった周囲への姿勢は経験無しでは出来ないもので、自分には果たしてそれだけのことができるのかしら。活かせるだけの経験を積んでゆけるのかしら。ううーん……。

それでも、今回力強い言葉を頂けてしまって、だからこそ自分も、全力で取り組める自信とちからが、もっと欲しいし、手に入れられるように進んでいかなくては。役職はともかくとして、自分個人でも、「いい仕事人」でいたいなあ、と決心した、今日此の頃。

ネットジャンキー。

ネットワークをツールとして使うか、それとも生活ベースとしてしまうか、というあたりは人間関係に対する価値観によってやっぱり違うのかな。

 

便利さに溺れると、使いこなせていないことに気がつかないまま依存してしまう怖さがあるのがネットワーク。それからあくまでもツールとして利用しているひとと、依存が進んで生活ベースとして利用しているひととでは、あんまりにも距離感が違いすぎて、コミュニケーションがうまくいかない可能性も含んでいると思うのだけれど、世界は案外にそのへん無頓着に進んでいく(当たり前だ)。

 

メールが必ず相手に届き、そして届けば即座にレスポンスがある、と無条件に信じているひとに、何故すぐ返答をくれないのかと責められたことがあるひとって結構多そう。そんなに早急なものなら電話するのが確実性は高いんじゃないかしらと思うのだけれど、どうなんでしょ? 携帯電話の普及時に、

「相手が電話に出ない」

という不安感をより煽っていたのは記憶に新しいけれど、携帯やメールは相手と自分の距離感をより縮めてみせるだけ、かえって不安も高まりやすいみたい。うーん、いまさらな話?

 

でもって、インターネット上の情報を取捨選択する、という行為。これがどうも割合難しい。2chの有用性なんかでよく言われてるアレですな。自分で選択できる目を持たないとあの場所は危険だ、とかなんとか。果たして情報ソースとして100%の信頼性があるのかないのか、というところで、すでにたくさんのひとが躓いてしまう。きっとわたしもそのうちの一人なんだろうけど。

ウェブサイトやメールに書かれたことが100%真実かどうかなんて、相手の口から出た言葉がうそかまことか、っていうのと同じ話なんだと思うのだけれど、意外に文字という形をとると真実味が増すのかな。ひとを信じることは大切な人間の原点なんだろうけれど、かといって疑うということを知らないのも困りもの。


そんなネットワーク環境を取り巻く物語が、森博嗣氏の『奥様はネットワーカ』。

大学に勤務するスージィは、愛する旦那様へのメールを勤務中に書いてみたり、日記めいたメモをテキストにして保存してみたりと、学内のネットワークを大活用中。もちろんミステリですから当然そんな日常のなか、事件が起こるわけで。



著者: 森 博嗣
タイトル: 奥様はネットワーカ

学内ネットワークを駆使した事件の発生と、不可思議なモノローグ、登場人物ごとに視点をめまぐるしく変化させた、これまたネットワーク的視点の物語が軽快に進んで、独特のテンポで収束に向かう。ネットワークの利用の仕方が現代的、というか「現代のネットワークに対する意識」的、というか。各方面から上手にアクセスして必要なデータを見比べて、さて真実は何処でしょう。