勝手気まま。 -4ページ目

チョッキンカー!

著者: 寺山 修司
タイトル: 赤糸で縫いとじられた物語

 

『動物会議』について書いたからにはこれも書かねば。寺山修司氏『赤糸で縫いとじられた物語』。

 

わたしの家はむかしむかし下宿屋で、だからそれぞれの部屋に鍵がかけられるようになっていた。 そして、下宿屋をやめたあと、親たちしか出入り出来ない部屋を、便宜上普段使わないという意味をこめて、「あっちの部屋」と呼んでいた。


「あっちの部屋」には、読書家だった母の本と、積読が好きな父の本と、やはり読書家だった祖父の本に、かつて学生だった叔父が買いあさった本が、これまた古めかしい、大学などでなら今でも見かける冷たい鉄板の本棚に積まれて埃を被っていた。

ちっちゃな頃から「あっちの部屋」は魅力的だった。何が隠されているのだろうといつも思っていた。要するに、身近な探検場所。湿っぽくて、カーテンもろくろく開けはしないからいつも暗くて、ふるめかしいにおいがして、いつも寒い。屋根裏に続く階段があって、そこから何か出そうで怖いし、でもそこには宝の山(イコール本の山)があって。怒られても怒られても、忍び込んでは「おとなたち」の本を漁るのは楽しかった。読めそうなものがあればかたっぱしから読んだ。

 

中には渡辺淳一氏の本など、少し官能的なものもあり、意味もわからず読んで、意味もわからず怒られてた。ああ、理不尽……。まあ今振り返ると小学生の読むものではないことは確かだ……。まあ、それでも懲りずにわたしはその部屋に入り浸ってたわけですが。

 

そして小学四年当時、寺山作品と出逢う。母親がものすごいファンだったらしく、寺山氏のインタビューの切り抜きまで挟んであったのを、まだ思い出せる。(というか今でもその黄ばんだ記事は実家に有り、本に挟まっている)


タイトルがまずもう素敵。赤い糸、というものは小学生だって知っている運命の糸で、それで縫いとじられた物語。

『はさみでチョッキン・カー!』

影を切り取るはさみをもった魔女のような老婆の話。すこし薄気味悪く、それなのにとてつもない引力を持ったそれぞれの話には、何度読んでも恍惚とさせられた。さびしくてさびしくてさびしいみずえの話。ふらふら恋する相手を探して消えてゆく少年の話。物語の中で、恋をする少女たちは、きらきらしていて、わがままで、すなおで、だからとてもうつくしくとても醜悪だった。恋は砕けたり実ったりした。恋をする少年たちは懸命で、純粋で、傷つきやすく、夢見がちだった。恋はやっぱり砕けたり実ったりした。恋愛ってなんだかすっごく身勝手でじたばたしててみっともなくて、なのになんだか可愛いなあ、と小さなませたわたしは思っていた、気がする(どうやらわたしは寺山作品で悟った模様)。


『みずえは「1」と書くつもりでした、ところがどういうわけか手は「2」と書いてしまったのです。』 
『それはひとりという鳥だ』
『海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり』


孤独という概念も、寺山作品で身に染みたんだったと思う。底なしの寂しさというものがある、ということ。ひとがたくさんいても寂しい、ということ。恋をしても、孤独という感情は消えないこと。孤独はいつでも誰かのそばにいるんだ、と当時わたしは思ったし、そしてその孤独をいつか赤い糸で誰かと自分の間に縫いとじることができるのだろうかとも考えていた(過去のわたしは純粋だったのだな……しみじみ)

実家は改築して、今はもう「あっちの部屋」

は無いのだけれど、わたしのなかで寺山作品はいつまでも、ひっそり静かに薄暗い部屋で、そっと読みふける一冊のまま。こういう出会いの出来た本は、一生大切にしておきたい。

再版歓迎。

著者: エーリヒ・ケストナー, イェラ・レープマン, ヴァルター・トリアー, 池田 香代子
タイトル: 動物会議

 

むかし失くした絵本。母の本ですでに絶版だったとかで、ものすっごい叱られたのをいまだに覚えている。

身体が弱ると、むかしの、すごく嫌だったけれど言えなかったことや、叱られてへこんだこと、というのを良く思い出す。楽しいことを思い出せばいいのに、ネクラだな自分。むー。でも、弱ってる信号なんだ、きっと。こうでもしないと「無理と無茶が存在価値」だと思ってたりするから、限度超えすぎるし。心から弱らせて大人しくさせようという作戦なのかも(誰の)

 

エスキモーという言葉も、くろんぼ、という言葉も、差別用語としてではなくて、ただただ、そういうひとたちがいますよとまっすぐな意味で知ったのは、この絵本と「ちびくろサンボ」のおかげだと思う。世界中にはいろんなひとたちがいて、みんなおなじこどもという時代を経て、おとなになるんだ、っていうこと。

 

普段それほど仲が良くも悪くも無い母だけれど、寺山修司とケストナに出逢わえたのは母のおかげ。最近は何故か寺山もケストナも再版がかかりまくっていて、ありがたい。今のうちに買っておかなくちゃ。

もののたとえ。

今働いている現場には、ちょっと乱暴な口調の上司A氏と、シニカルな口調の上司B氏と、B氏と個人的に親しい茶髪で腕っ節の強そうなC氏がいて、ウチの会社の一番の上司が、

「親分、代貸し、チンピラ」

とその三人をたとえているのだけれど、今日、その一番の上司に、

「お前はあの三人の情婦だからなあ」

といわれた。

 

じょ、情婦……。

 

あの三人と肩を並べられたことに喜べばいいのかしら。いやそれ違うし自分!

……まあツボに入って笑っちゃったんですけども。

偶数花弁で花占い

割と、なんでもかんでも自分はだめなんだ、と思ってるフシがある。というかフシどころか、まあ実際そう思っている。ああ、自分が鬱陶しい。

 

いや実際だめだめなことはとても多いんだけど。先週あたりから、ちょっといつものお仕事とは違うことを始めていて、自分のあまりの要領の悪さに、唖然としているところ。せっかく先週上司からもがんばれ、と言ってもらったのに、凹むのが早くていやになる。キング・オブ・ネガティヴだしなあ、自分……。

 

過去を振り返って、自分はお仕事方面に関してだけは(私生活はデフォルトで腰が低い、らしい。しょっちゅうひとから指摘される)結構ちゃんと自信持って出来ていた、と思っているのだけれど、最近は全然。原因はまあ、自分でわかっているっちゃわかってて、以前の現場に起因しているんだろうなとも思ってるのだけれど、まあ、それはそれだな。

 

それにしても、仕事に対するスタンスだけは捨てたくなくて、あれだけ足掻いたのにやっぱり勘も鈍ってるし判断力が低下してる。おまけにもともとしょぼい技術を磨いてなかったのでますますしょぼい。後悔だけならたんと山盛り。以前の現場時代はこっそりお仕事かけもちして、希望業界に潜り込んでたのだけれど、今せっかく現場がその希望業界そのものだというのに、活かせなかったら意味が無いよ。とほほ。単純にやっぱり能力不足だなあ……。うう。

 

最初から諦めることは(人生においてはしょっちゅうだが、せめてお仕事においては)したくない。やりたいコトとやりたい仕事だけは、放棄するわけにはいかない。だから頑張らなくちゃ。誰も偶数花弁のはなで花占いなんかしない。見えてる結果をわざわざ占ったりなんか、するだけ無駄だし意味が無い。自分の今の進み方は、でもまさにこんな感じ。あえて偶数枚の花びらを持つ花を積んで、それで花占いしてたらそりゃただの言い訳さん。もっとちゃんとやろうよ、自分。

 

来月から、面子も業務内容も正反対に位置するような場所に変わる。それまでに自分を立て直して、なんとかできるかな。出来なくちゃだめなんだけど、今から結構、かなり不安。「ちゃんと」「ちゃんと」の呪いに負けてる。周りに迷惑かけないペースで、でも自分のペースも崩さずに、さて、「ちゃんと」、「ちゃんと」。

猫は重い。

カーラ教授と呼ばれる川原泉さんの、哲学チック(哲学的、ではなくてあくまでも哲学チック、という表現が良く似合う)な漫画がむかしから大好きで。

でも全然知らなかったので驚き。『笑う大天使(ミカエル)』映画化か……。



著者: 川原 泉
タイトル: 笑う大天使(ミカエル) (第1巻)

お嬢様学校にうっかり転入する羽目になった一般大衆市民の【ごくごく普通な】女の子が、お嬢様であるはずの猫かぶりクラスメイトと繰り広げる可笑しさ満載の学園生活。しかもさらにうっかり、微妙に混ぜ合わせた沼色の実験溶液を頭からかぶってしまったら、なんと超人的怪力女子高生に。


特大の猫をかぶったお嬢様もどきたちの必死な攻防が、笑いを誘って、読んでいるうちについ、くすくす。ああ、わかるなあ、特大な猫って重いよねえ……、とか。庶民はやはりあじの開きだよなあ、とか。あれ。なんか着眼点がおかしいな、自分……。

それにしてもワイヤーアクション有りで映画化、なんて吃驚するやら可笑しいやら、観たいような観たくないような、ああ複雑。カーラ教授の漫画の魅力は、キャラクタやストーリも勿論だけれど、あの哲学チックな七五調のモノローグと、唇一文字に結んだ凛々しい表情描写なんかにもあるわけで、ソレを映像化するのは相当難しいんじゃないかしら……。ファンとしては心中複雑。

この主人公扱いの女子高生は三人居て、それぞれのキャラクタが際立ってる。カーラ教授ご本人が、インタビューで以前、
「この三人のそれぞれの短編を書きたくて、そのための前ふり土台の話として『笑う大天使』を描いた」
というようなことを仰っていた記憶があるのだけれど、確かにコミックスに収録されているこの三人がそれぞれ主役を張る三つの短編は、さらに面白くてほろ苦くて、切ない。映画化にあたって、あの短編がさらりどこかで活きていると、個人的にはうれしいんだけど、あれを映画におさめるんだったら、エピソードもりだくさんには出来ないんだろうなあ……。