チョッキンカー! | 勝手気まま。

チョッキンカー!

著者: 寺山 修司
タイトル: 赤糸で縫いとじられた物語

 

『動物会議』について書いたからにはこれも書かねば。寺山修司氏『赤糸で縫いとじられた物語』。

 

わたしの家はむかしむかし下宿屋で、だからそれぞれの部屋に鍵がかけられるようになっていた。 そして、下宿屋をやめたあと、親たちしか出入り出来ない部屋を、便宜上普段使わないという意味をこめて、「あっちの部屋」と呼んでいた。


「あっちの部屋」には、読書家だった母の本と、積読が好きな父の本と、やはり読書家だった祖父の本に、かつて学生だった叔父が買いあさった本が、これまた古めかしい、大学などでなら今でも見かける冷たい鉄板の本棚に積まれて埃を被っていた。

ちっちゃな頃から「あっちの部屋」は魅力的だった。何が隠されているのだろうといつも思っていた。要するに、身近な探検場所。湿っぽくて、カーテンもろくろく開けはしないからいつも暗くて、ふるめかしいにおいがして、いつも寒い。屋根裏に続く階段があって、そこから何か出そうで怖いし、でもそこには宝の山(イコール本の山)があって。怒られても怒られても、忍び込んでは「おとなたち」の本を漁るのは楽しかった。読めそうなものがあればかたっぱしから読んだ。

 

中には渡辺淳一氏の本など、少し官能的なものもあり、意味もわからず読んで、意味もわからず怒られてた。ああ、理不尽……。まあ今振り返ると小学生の読むものではないことは確かだ……。まあ、それでも懲りずにわたしはその部屋に入り浸ってたわけですが。

 

そして小学四年当時、寺山作品と出逢う。母親がものすごいファンだったらしく、寺山氏のインタビューの切り抜きまで挟んであったのを、まだ思い出せる。(というか今でもその黄ばんだ記事は実家に有り、本に挟まっている)


タイトルがまずもう素敵。赤い糸、というものは小学生だって知っている運命の糸で、それで縫いとじられた物語。

『はさみでチョッキン・カー!』

影を切り取るはさみをもった魔女のような老婆の話。すこし薄気味悪く、それなのにとてつもない引力を持ったそれぞれの話には、何度読んでも恍惚とさせられた。さびしくてさびしくてさびしいみずえの話。ふらふら恋する相手を探して消えてゆく少年の話。物語の中で、恋をする少女たちは、きらきらしていて、わがままで、すなおで、だからとてもうつくしくとても醜悪だった。恋は砕けたり実ったりした。恋をする少年たちは懸命で、純粋で、傷つきやすく、夢見がちだった。恋はやっぱり砕けたり実ったりした。恋愛ってなんだかすっごく身勝手でじたばたしててみっともなくて、なのになんだか可愛いなあ、と小さなませたわたしは思っていた、気がする(どうやらわたしは寺山作品で悟った模様)。


『みずえは「1」と書くつもりでした、ところがどういうわけか手は「2」と書いてしまったのです。』 
『それはひとりという鳥だ』
『海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手を広げていたり』


孤独という概念も、寺山作品で身に染みたんだったと思う。底なしの寂しさというものがある、ということ。ひとがたくさんいても寂しい、ということ。恋をしても、孤独という感情は消えないこと。孤独はいつでも誰かのそばにいるんだ、と当時わたしは思ったし、そしてその孤独をいつか赤い糸で誰かと自分の間に縫いとじることができるのだろうかとも考えていた(過去のわたしは純粋だったのだな……しみじみ)

実家は改築して、今はもう「あっちの部屋」

は無いのだけれど、わたしのなかで寺山作品はいつまでも、ひっそり静かに薄暗い部屋で、そっと読みふける一冊のまま。こういう出会いの出来た本は、一生大切にしておきたい。