いらいらとぐちぐち。 | 勝手気まま。

いらいらとぐちぐち。

実はこの間から、ちょっとずつイライラがたまっている。理由はもう自分にはわかりすぎるほどわかっていて、しかしどうにもうまくそれを誰かに伝えることもできず。深夜友人に電話で暴れ倒して、宥めてもらうも、いまだスッキリ解消しない。

 

いいひと=(イコール)悪いひとじゃない、てことじゃないし、同時に悪いひとじゃないからといって、=(イコール)いいひとでもない。それがすごく自分を混乱させている。もともと白黒はっきりさせたがりなところもあって、だから判断の曖昧な状態でひとづきあいをすることに、すぐ疲弊する。とても自分のことをやさしさの足りない人間だと思うし、根性無しだとも思う。

 

自分を弱い、と主張して優しさを求めるひとに、わたしは多分疲れている。優しさや愛情にはやっぱりどうしたって限度があって、出来るだけたくさん大切な人に注ぎたい。けれど、時折己の弱さを前面に出してわたしに底なしの愛情を求めてくるひとに出逢うと、わたしは恐ろしくなるのだ。

 

違うんじゃないか、と感じる部分を我慢し飲み込んで相手に言わない、というのは相手を見くびっている上に、対等に、真摯に、きちんと向き合って付き合う気がないという、酷い状態だという自覚はある。でもやっぱり、それを冷静に判断して、言葉にしてうまく伝えることがちゃんとできない。語彙が足りないのか、それとも根性が足りないのか。そしてだんだん、溝は深くなる。

 

心が弱っている相手や、痛みやしみで病んでしまった大切な友人たちを、出来るだけ大切にしたいし、手助けできることはしたい。出来る限りの愛情と優しさを注ぎたい。でも、わたしの周りの、病んでしまったり疲れて立ち止まってしまったりしたひとたちは、進めないまでもちゃんと足掻いている。頑張れなくても、いつか頑張るときに備えてパワーをためている。だからわたしはその背を押したくなるし、手をつなぎたくなる。待っていて一緒に歩きたいし、先に進んだとしても振り返りたい。でもそんななか、たまに、

「わたしは弱いんだから、もっと、もっとやさしくして。いつも、いつもやさしくして」

と当然のように主張するひとが居て、そうするとわたしは、口をぱくぱくさせて返答に困ることになり、またイライラするのだ。小さな小さな棘を幾つも心にためて。

 

「あなたが優しくしてくれないから、わたしがこんなになっちゃったのよ」

「あなたが優しくしてくれないと、わたしはもっと病んでやるから」

それは脅迫ですか、とわたしはいつも口にしそうになる。疲れ果てて病んでしまったひとたちが、うまくできないこと、自分を守れないことについて、わたしはいくらでもわたしを消耗jしたいけれど、かといってわたしもほかの人の人生を背負えるほどの人間じゃないから、相手の人生をすべて黙って飲み込んで、肩代わりしてあげることはできないのに。

 

冗談に見せかけて本気でそれを言う人が、正直わたしはきらいだ。自分の弱さを盾にして、いつも優しさばかりを求めている。自分が傷つきやすいことを理由に、自分が誰かから傷つけられないようにするのではなく、相手が自分を傷つけないようにすることだけに注意を払っている。そんな相手が、わたしはきらいだ。自分のなかにもきっとこんなズルさはある。けれど、戦っているつもり、ではあるのだ。自分の弱さをウリにだけはすまいと。……集合の中のキャラクタとして分類されれば、弱いところにいることもあるだろうけれど、それでもそれが言い訳にならないように、一応、戦っているつもりでは、あるのだ。

 

「わたしは弱いから、優しくされて当たり前。あなたが優しくしてくれないのは、酷いこと。わたしが壊れたのはあなたのせい。わたしの心をいつも慮ってくれなくてはいけないのに、言わなかったことも全部察してくれなくちゃいけないのに、察してくれないあなたが悪い」

「わたしは傷つきやすいんだから、わたしの口にしたことの善悪に関わらず、あなたはわたしに優しくあるべき」

 

要約すればそういう意味だと、わかっているんだろうか。わかっていて、なお、それを言うのだろうか。失礼なことを言われても、わたしは強いから我慢して飲み込めばいいんだろうか。それくらい簡単だ。気にしないふり、気にならなかったふり。言われた意味に気づかなかったふり。ただ笑い返すこと。声を立てて笑い、可笑しそう煮振る舞い、何も考えていない優しさをふりまくこと。

 

 イライライライラ。心の底に澱のように溜まって、毎日気持ちが強張ってゆく。出来る限り、笑っていたいのに。能天気に過ごしているように振舞いたいのに。その一方で、もうそろそろはっきりさせたいという悪いムシがうずうずして、あからさまな態度になりつつある。これじゃいかんというのに。

 

きみのせいだ、と言われることに慣れて、なんでもかんでも自分を責めてきたけれど、そろそろわたしも、自分の責任とそうではないもの、きちんと取捨選択できるようになりたいし、なりつつあるはずなのだ。相手がたとえいいひとでも、悪いひとじゃないわけでもなく、悪いひとじゃないからといって、いいひとなわけでもない。見極めて、いかなくては。